何故?ヒラフと言われているのか!



松浦武四郎のニセコ(安政4年)

松浦武四郎「報志利辺津日誌」より、
倶知安から見たニセコアンヌプリ(中
央付近がヒラフスキー場と思われる)




「全国スキー場略史」山崎紫峰著(昭和11年発行)より
 ニセコヒラフスキー場札幌鉄道局のスキー部員に依って、大正十二年頃開かれたこのスキー場は、
昭和三年三月、秩父宮殿下がニセコアン岳に御登撃遊ばされて以来一段と開発され、変化あるくろ
うとひ極めて面自い山岳スキー場として特に玄人筋の注意を惹く様になった。同七年十二月に比羅
夫スキー倶楽部が設立され、また同十年からは根拠地の山田温泉と、函館本線比羅夫駅間に、私設
電話の開設を見るに及び山岳スキー場とは云へ何等不優を感じない様になった。雪質は場所柄だけ
に勿論申し分のない好粉雪、シーズンは一月初旬より三月一杯、積雪は四米前後である。宿泊設傭
としては未だヒュッテの様なものはないが、根拠地の山田温泉旅館は、六十人位の収容可能で乾燥
設備もあり、相当行き届いて居る。料金は一泊三食付一円五十銭見当。次に順路としては、函館本
線比羅夫駅で下車して、山田温泉まで乗合馬橇を利用し約一時間、料金五十銭。またスキーで行く
とすれば、往路は若干の上り勾配で五十分乃至一時間を要するが、帰路は変化の多い三分の二以上
の片降りで、廿分そこくで比羅夫駅まで来てしまう。温泉からニセコアン岳登りは、谷と尾根渡り
約二時間半の行程である。なほこのスキー場には、既にレコードで広く宣伝されて居る「ニセコ小
唄」と云ふのがあり、また前記秩父宮殿下の御登撃以来、申分のない乾粉雪を慕って、集まって来
る外国人スキーヤーの数もなかなか多い。



スキー大会の歴史
昭和13年1月14日公認大会第11回全日本学生スキー大会が初めてヒラフスキー
場で行われた公式のスキー大会で、その後の大きな大会は、昭和37年全日本アルペ
ンスキー選手権、昭和45年第25回国体冬季大会スキー競技会、昭和61年第41
回国体冬季大会スキー競技会など数多くの大会が開催されています。


昭和37年全日本アルペンスキー選手権

昭和45年第25回国体冬季大会

昭和30年代に入りニセコ(ヒラフ)で全日本アルペンを開催との話があり、
条件はリフトのある事で昭和37年開催が決まりました。昭和36年にゲレン
デの伐採まで行きましたが資金はなく、全日本ではニセコ開催は一時保留にな
りましたが、日東商船が竹パルプの運搬リフトの建設の計画があり陳情をして
冬はスキーリフトとして使用される事になりました。昭和36年12月6ヶ月
でリフトは完成しました。それがヒラフ(ニセコ)のスキーリフトの始まりです。


スキーリフトの歴史

昭和36年 ニセコヒラフに初めての
スキーリフト建設竣工式
 
スキーリフト運行

 

当時のゲレンデとファッション

ひらふで初めてのヒュッテ


 東洋のサンモリッツ

秩父宮は昭和天皇の弟で当時25才の青年士
官であった。
昭和3年3月秩父宮殿下はニセコでスキーを楽
しんだ。
その時の小樽新聞(現北海道新聞)は「極東の
サンモリッッに/最後の思出/霊泉に囲まれた
好スロープ/御滞在は3日間」の見出しでスキー
場の様子を報じた。その時の「極東のサンモリッ
ッ」の語がニセコを形容する言葉として始めて紙
面にのった。のち「東洋のサンモリッッ」で普及し
ていった。昭和39年3月12日、倶知安町議会は
サンモリッッとの姉妹都市提携を決議した。