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海将阿部比羅夫、足跡の謎...
魚とソーラン節、フゴッペの洞窟とウイスキーの里、余市町。そのシリバ山に山麓に阿部比羅夫記念碑がある。阿部比羅夫は生没年不詳。古代の水軍の将。658(斉明4)水軍180捜を率いて蝦夷を討ち、これを懐柔し、さらにみし はせを討った。翌年再び蝦夷を討ら、後方羊蹄(しりべし)を政所とし、郡領をおいて帰った。後方羊蹄は北梅道後志 地方ともいわれる。(角川日本史辞典)比羅夫はこのあと天智天皇元年(662)になって、百済救済の対新羅戦に水軍 の司令官として遠征する。そして翌年八月、折羅側の唐の水軍との白村江会戦で完虜なきまでの大敗を喫してしまう のである。もっとも、のちにわが国の西国の総管府大宰府の長官に任ぜられているのだ。敗戦の責任の十字架を負わ されるまでには至らながつたらしい。それはともかく、余市町は「わが町こそ吉代の英傑比羅夫が後方羊蹄政庁を設置 した歴史の町である」と、鼻高々だ。だがつい先頃まで、同じ後志管内の羊蹄山麓−具体的にいえば倶知安町、喜茂別 町説が決定的に信じられていた。であればこそ倶知安には比羅夫部落、ひらふ国際スキー場があり比羅夫駅があり、喜 茂別には比羅岡部落があり比羅夫神社があったのである。それも根拠薄弱ではない。あの幕末の蝦爽地大探険家松浦 武四郎のお墨付き付きの権威ある説によるものなのだ。にもかかわらず、余市はそれを尻目にかけてなぜ「後方羊蹄郡 領之標」を建てるようなことを」たのだろうか。いったいどんな根拠があるというのだろうか |

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後方羊蹄の津軽説
それではまず岩波文庫版『日本書記』によって、比羅夫北征の足跡を追うことにしよう。北征は女帝斉明天皇の四、五、六年(658−660)の三回にわたって行こなわれている。 比羅夫は当時越国守−−北陸の地方長宮のポストにあったが、印南邦雄著『福井県の 歴央」によると、北征の根拠地は角鹿と呼ばれていたいまの敦賀だったらしい。四年には 鰐田、浄代の蝦爽を服属させているが、これを現在の秋田、能代だとみることには異論を はさむ余地がないだろう。だが五年の「肉入籠に至る時に、間菟の蝦夷胆鹿島、菊穂の二 人進みて日く、後方羊蹄を以て政所と為す可し、胆鹿島等の語に随ひて、遂に郡領を置き て帰る」という記事となるとスンナリ理解できなくなってしまう。ここに出てくる舌を噛みそうな 地名は、いったい蝦夷地にあったのだろうか。それとも本州の地名なのか。その比定は、当 然比羅夫が蝦夷まで進出したか、しなかったかそのものの問題なのである。今でこそ「角川 日本史辞典」が示唆しているように、キーポイントの後方羊蹄は北海道にあるとされているが 、昔は津軽説が幅を利かせていた。たとえぱ憂園の学者林子平は「三国通覧図説付録」(天 明五年1785)で「津軽を後方羊蹄と心得たるに非ずや」と述べている。また天明八年から四 年の間蝦夷地の南部を巡歴した文人管江真澄は、旅日記『えぞのてぶり』で「後方羊蹄は阿 曽部の森ならん」と、津軽の名由岩木山を指したのだった。だが書記をつぷさに分析した上で の説ではない。漠然とした印象論にとどまつている。近代に入ってから、津田左右吉博士が書 記の後方羊蹄はシリベシにあらず、シリベシすなわちアイヌ語の「大きい川」であり津軽の大河 岩木川のことであるという説を発表した。だが「北海道にはズバリ尻別川という大河がある」と いう反論の前に色槌せてしまった。はじめての本格的アイヌ語地名辞典『北海道蝦爽語地名 解』を編集した永田方正は、論文『阿部比羅夫蝦夷略考』で後方羊蹄は下野国(栃本県)の標 茅なりという奇説をぶちあげた。肉子寵は奥州白川郡(福鳥県)の猪子、そして大河は信濃川 だとかなんとか。地名の語呂合わせの弊におち入った地名学者の一人よがりの空論として、 学界では問題にされなかった。さもありなん、比羅夫に討伐された蝦夷地侵略の大陛系の粛 慎(ツングース族らしい)を、越後の地名足羽だとする解釈に至っては噴飯物というしかない。 書紀はこれをミシハセ、アシハセの二通りの読ませ方をしているが、そのアシハセにひっかけ たのだろう。後方羊蹄に登った松浦武四郎は書紀斉明朝四年の「越国守阿借引田臣比羅夫、 粛慎を討ちて生熊二つ、搬皮七十枚を献る」うんぬんの記事は、比羅夫の蝦夷地北征の強力 な傍証になっている。北海道肯定論者は、否定派との地名比定論争がもつれてくるとこれを切 り札としたものである。「ひぐまは北海道と南千島にしか棲息していない。この書紀の記事は、比 羅夫がひぐまを手に入れたことを示している」さて、アイヌがマッカリヌプリと呼んでいる名山こそ 、まぎれもなく後方羊蹄山である。この山こそ斉明朝の蝦夷地の政庁の古址にほかならない……。 こう結論したの松浦武四郎だった。登山家としても知られる作家深田久弥は、名著、「日本百 名山」の「後方羊蹄」の項でこう書いている。 この山を単に羊蹄山と略して呼ぷことに私は強く反対する。古く「日本書紀」斉明朝五年(65 9年)にすでに後方羊蹄山と記された歴史的な名前である。その前年、阿倍比羅夫が蝦夷を 討って、この地に政所を置いた。後方羊蹄の後方を「しりへ」(すなわちウシロの意)、羊蹄を 「し」と読ませたのである。読み方について補足する上「し」というのは草の名の漢名だというの が在野の名植物学者・牧野富太郎博士の説である。野山でよく見かける大形の夕デ科の雑 草で、異名はギシギシ、スカンポ。ここまで書けば思いあたる方もおられるだろう。彼は続けて、 武四郎が百年も前の厳冬に後方羊蹄山の山頂を極めたことを誉めそやしている。武四郎は 「我こそ比羅夫の後裔なり」と信じていた。そして丈余の雪とはだをつき刺す酷寒を克服して 登撃に成功したのは、安政五年1858)2月4日のことだった。その感激を三十一字に託して くだって明治2年8月、政府に北海道の画郡の命名を命ぜられた時、このしりべし地を中心と する地域を「後志」国と名づける。愛する後方羊蹄を読みやすくしたのである。 |
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比羅夫神社の創祀
『後方羊蹄山は、政所の古址である」という武四郎の説は、道内の官民の間に浸透していく。明治十五年に開拓便が編纂したはじめての道央『北海道志』は(後方羊蹄山は)往昔、斉明 天皇五年、阿倍比羅夫政所を建て郡領を置きし所なり」と明記する。そして明治四十年七月、 民間の北海道鉄道が園有鉄道に変ると従来の大曲駅を比羅夫駅と改称。(現在はJR函館本 線)翌年三月、国営の青函航路に就航した連絡船第一号は、比羅夫丸と名付けられたのだっ た。四十三年三月、日本海グループの小樽・寿都二支庁が内陸の羊蹄山グループ虻田郡東 倶知安村、真狩村、狩太村の三村と合併して「後志支庁」が生まれた。武四郎快心の名付け はまたまた生かされたのである。そしてその新支庁は、歴央的にも古く人口もはるかに多い小 樽や岩内を拒けて東倶知安村に置かれた。中央に位置するという理由によろものだが『倶知安 町史」は比羅夫狂の河含篤叙や山川実治が「斉明朝の政府がふたたび還ったと喜ぴあった」と 記している。この河合は、明治三十三年五月に倶知安郵便局長になった人物である。以前伊達 (現・伊達市)にいた時、伊達藩の家老として藩主伊達邦成を助伊達村開拒の礎をきづいた田村 顕允の影響を受けた。田村は自らを征夷大将軍坂上田村麻呂の末裔と信じていたが、室蘭、虻 田ほか二郡の郡長だった明治十九年、北海道庁長官に『後方羊蹄山開拓に関する意見」を上申 した比羅夫ファンたった。田村の説に感動した河合が、山麓一帯を踏査したのは明治二十八年 だ。そして問題の政所の旧地(現在の{喜茂別町比羅岡)を確信する。大正二年になって留産と 目名の住民に呼ぴかけて比羅夫神社を創祀した。同社は昭和六年に丸山に移って現在に至っ ている。河合はそれにとどまらない。昭和11年に『千古の謎を解く阿悟比羅夫後方羊蹄の造跡』 という自費出版本を出す。ここには後方羊蹄政庁の喜茂別説こわだかが声高に語られていた。 平成2年7月発行北方ジャーナル ノンフェクション作家脇 哲著より
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